<   2011年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

 

日本の石橋世界の石橋スケッチ集

中島川後あとのまつり(2011.4.30)が長崎市中島川沿い光永寺と慶華園でひらかれ、全国から50名もの懐かしい仲間が集まってくれました。そこでこの機会に、描き溜めてあった石橋スケッチの一部をB6版80ページの小冊子にまとめて発行しました。もし入手ご希望の方がおられましたら、送料込みで千円で送ります。katayose1234@gmail.com にご一報ください。
a0064392_10244581.jpg
a0064392_1025525.jpg
a0064392_10251782.jpg
a0064392_10252939.jpg
a0064392_1025425.jpg
a0064392_1025568.jpg
a0064392_10303629.jpg
a0064392_1032652.jpg
a0064392_10323345.jpg
a0064392_10331039.jpg

いま、石橋の時代                         片寄 俊秀
 一九七〇年に長崎造船大学(現長崎総合科学大学)に赴任して、学生たちの手引きで初めて中島川のアーチ石橋群に出会った。それまでこういう建造物が存在することを知らぬわけではなかったが、現物に出会い、下から見上げ、その肌に触れて深い感動を覚えた。
あの重くて硬い石が、優美にそして軽やかに宙に浮いている。そのアーチの上を人びとが行き交い、当たり前のようにクルマが走る。中島川にずらりと並ぶ石橋たちは、江戸期に建造されて以来今日まで、営々と人々の暮らしを、文字通り「下から支えて」きたのである。町人も旅人たちも、シーボルトも龍馬も、足繁くこの上を通ったに違いない。

石山から切り出した材に人の技を加え、持ち運びのできる部材にして現場で壮大な構築物に組み上げる見事なデザインと設計。地元材ゆえに地域の風景に自然に馴染む、先人たちの知恵と高度な技術の結晶。これぞ長崎の宝もの、大切にしないとバチが当たると思った。

川沿いの光永寺の正木住職と檀信徒の方々が、早くも一九六六年に提唱されていたのが、この石橋群を生かした「中島川大遊歩道の構想」である。まちの構造を歩く人を中心に据えるというこの卓抜な構想に惚れ込み、その実現を大学の研究教育の中心テーマに据えた。
そして、心ある市民の方々と学生たちとが一つになって、川掃除からはじまって「中島川まつり」を発明し、市議会請願や署名活動、河川浄化や洪水対策、環境デザイン、商店街の活性化、観光地再生など、地域をテーマとするさまざまな運動と研究活動を展開した。

 だが、当時「経済の高度成長」に心を奪われていた人々は、「どぶ川」化した中島川に架かる古ぼけた石橋などに何の価値も認めなかった。時代遅れの邪魔ものは一刻も早く壊して、川に蓋をして駐車場にする。そしてその上には、東京や大阪にも負けない(!)立派な高架道路を建設し、それを「九州横断道路」と連結して物流ルートを強化し、クルマでやってくる大量の観光客を長崎に呼び込む。これが経済的に落ち込んでいる地方を元気にし、市民の暮らしを豊かにする「近代化」の決め手になると、本気でそう思っていた。
まさに「哲学無き技術」謳歌の時代。その動きに待ったをかける我々は、「何でも反対のアカ教師とゲバ学生」と罵倒され、あいつらは「かたよっとる」とのレッテルが貼られた。冷たい視線のなか、当時の学生たちは一人一人がよく考え、よく活動し、よく耐えた。

いま、世界を揺るがすFukushima原発の一号機が建設されたのが、まさにその頃である。さまざまなおいしい話と、ボスとその取り巻きの懐に大金がねじ込まれた過疎の村社会のなかで、原発建設に抗した心ある人たちは、おそらく大変な目に遭ったことであろう。
先見の明なきエセ政治家やエセ経済人が、エセ学者の保証する「安全」を頼りに「エセ技術」に飛びつき、地震と津波災害を原発汚染でさらに無限に拡大して、われわれをとんでもない世界へと導き、世界の人々に不可逆的かつ多大な被害を与えてしまった。おそらく世界中からの非難と賠償請求を含めて、この国は決定的な社会的経済的危機に追い込まれることとなろう。

先行きがまったく見えない日本。もう一度原点からやり直すしかないことは明らかだ。われわれは、そのためにこそ中島川や日本の、そして世界の石橋群をじっと見つめてみたいと思う。
先人たちが培った、人々の暮らしをしっかりと暖かく支える「ほんものの技術」の結晶。この物言わぬ石橋たちこそ、われわれにほのかな希望の灯を与えてくれそうな気がしている。
(二〇一一年四月記す)

by honmachilabo | 2011-05-09 10:59  

ウメサオさん(その2)

ウメサオさんには、生まれて初めての著作『ブワナトシの歌』(朝日新聞社「アサヒアドベンチャーシリーズ」1963年)で、文章の書き方を根本から教わった。最初の原稿は真っ赤に×が入れられ、その後必死になって書き直してようやく合格した。その経験をのちに私自身も次の世代に伝える仕事をしたが、今回資料を調べて気が付いた。梅棹さん自身が、若いころに今西さんにしっかり絞られたと追悼文に書いておられたのだ。
a0064392_21265644.jpg
a0064392_21271160.jpg
a0064392_2127291.jpg
a0064392_21274542.jpg

by honmachilabo | 2011-05-06 21:29  

ウメサオさん

梅棹忠夫氏が2010年7月に亡くなられた。その追悼行事の一つに吹田市立博物館が主催する「ウメサオさんを語る」シリーズの2番目に登場させていただいた。
思えば多くの優れた先達に導かれて今日まで生きてきた。お世話になった恩師はたくさんあるが、なかでも西山卯三、今西錦司、梅棹忠夫のお三方には、言葉に表せぬほどお世話になった。といいながら、なぜか「先生」と表現したことがない。「西山さん、今西っさん、梅棹さん」と、時には面と向かって気安くいうのが当時の学生も下っ端の先生も、町の人にとっても「フツー」であった。関東方面の人はよく驚いていたが、それが当たり前というのが京都のまちの雰囲気だった。いい時代だったなあ、と今にして思う。
a0064392_219186.jpg

a0064392_2194333.jpg

a0064392_21113032.jpg
a0064392_21115945.jpg

a0064392_22402738.jpg

by honmachilabo | 2011-05-06 21:04  

大震災、津波、原発犯罪

この大災害を前にして、言葉もない。日々苦しみのいや増すなか、必死にたえておられる人々のことを思うと、何も書けなくて今日まで来てしまった。

「想定外」という言葉が飛び交っているが、責任逃れの言葉でしかないと思う。何年も前から、心ある真面目な科学者たちは、様々な検証を重ねた結果、ほとんど正確にこの災害の全貌を予測していたからだ。大地震と津波の発生で原発がどうなるかについてのほぼ正確な予測が、例えば次の著書に記されている。
田中三彦著『原発はなぜ危険か――元設計技師の証言』 1990年発行
石橋克彦著『大地動乱の時代――地震学者は警告する』1994年発行
高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』2000年発行
(いずれも岩波新書)

この著者らは、警告を発するだけではなく、災害を未然に防ぐために様々な努力を重ねていた。関係地域の住民たちの集会に参加し、住民たちの勉強と活動を支援するなど、様々な運動を重ねてきておられた。しかし彼らの真摯な叫びを無視し、さらには「アカ」呼ばわりして彼らを社会的に抹殺し、影響力のある社会的な仕組みから完全に排除してきた連中がいたのである。その「犯人」はだれか。言うまでもなく歴代の自民党政府であり、そのスポンサーであった関係企業の連中である。今回の原発災害は、まさしくその連中による「犯罪」が明るみに出た、ということなのだ。

大震災も同様に、ほぼ正確に予測されていた。
作家吉村昭の名作『三陸海岸大津波』1970年発行。文春文庫で再刊。には、三陸海岸の危険性が、じつに抑えた文章で、詳しくかつ淡々と描かれている。三陸海岸は、すでに太古の昔から何度も何度も大津波に襲われていた地域なのである。昭和8年1933年の大津波では、津波高さが50メートルに及んだとある。
この危険一杯の海岸に、こともあろうに「原発」を立地させたことこそ、まさしく「犯罪」であったと思う。

憎き犯罪者たちを断罪しなければならない。
だが、それをしたとて、何も生まれないし、だれも救われない。悔しいが、これ災害というものなのだろう。
今は何をおいても目の前の苦しんでいる人々の救援活動をするしかない。藤村さんの提唱で、これまで小生らも参加させていただいて展開してきた北前船ルートの復活再生をテーマとした「ぼうさい朝市、昼市ネットワーク」が、拠点を引き受けてくださった山形県酒田市のみなさんの猛然たる活動のおかげで、仲間の一つであった南三陸の商店街の救援に、かなり有効に機能している。まことにありがたいことである。

中国の四川地震で見出された「対口支援」という、個々人のネットワークづくりが大災害の被災地救援にもっとも有効な仕組みであることがわかったというが、それに近い仕組みが、すこしだけできていたのである。もっと早くから、もっと大規模に展開できていれば、もっとよかったのだが・・・

by honmachilabo | 2011-05-05 01:42