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新春一発、海に吼える!

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まちづくりプランナーを自称して、これまでさまざまな提案をヤマほどした記憶があるが、なかで何一つ「成功」したものがないと思い込んでいたら、唯一大成功しているイベントがあった。
今から10年前、当時大阪府立「さとうみ公園」の園長であった旧友の鎌谷カマちゃんから、「この公園には、冬場誰もやってこない。なんか知恵はないか?」と問われた。
同行した空手の達人の中橋さんと一緒に呑んでいるうちに、まず思いついたのは、たしか「浜下(う)り」と呼ばれる、沖縄地方に独特の新春の風習である。なんでも旧暦3月3日の大潮干潮の日に女性たちが海に入って、沖でおしりをちゃぷんとつけるという、昔からの宗教的な?行事であったように思う、それが何を意味するのか、そこのところは記憶がないのだが。
もう一つは空手を学ぶ若ものたちを動員しての、「寒稽古!」を思いついた。

ただ、寒稽古と正面からいうと、えらく型式ばってしまう恐れもあるので、当時すもうの小錦さんがローマ字でKONISHIKIとやっていたのをヒントに、kangeiko!とローマ字にしてみた。どや、これでと持ちかけ、ついでにイベントとして、みんなで新春一発大声で「海に吼えよう、と提案した。

そこで、公園が主催して地域の方々に呼びかけたところが、これ、おもろい、となって、ハワイアンダンスをやるグループとか、よさこそーらんだとか、ダンスクラブとかが参加して、だんだん盛り上がって、ついに今年は第9回。
どんどん参加者が増えて、おそらく1千人ははるかに超える大変な人出である。公園事務所から実行委員会名で招待状が来たので、これは久しぶりにの目で確かめてみようと快晴の現地に赴いた。
まずエントランスの大看板に感激。何と小生のへたくそな書が大看板になっているのだ。初年度は、吼えるという字を間違って「吠える」と書いていたのを、それではキャイーンという犬の吠え声になるからと、2年度目からライオンのワオーッの「吼える」に修正した。

by honmachilabo | 2011-01-09 12:33  

初詣は千里ニュータウンのパワースポット

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正月2日。今日は突然思い立って、千里ニュータウンのど真ん中にぽっかりと残されてきた「計画除外地」の豊中市上新田集落の氏神様である「天神社」さまに初詣に行ってきた。もう一か所、同じく除外地である吹田市山田地区の伊射奈岐神社にも参詣してきた。

感想を一言でいえば、「氏神様をもつ集落」と、「もたないニュータウン」との、基本的な違いというか「貫禄の違い」は、想像を絶するほど大きいものであったということになろうか。なんと千里中央から、中国縦貫道路を越えて、竹やぶ道を抜けて「天神社」に至る道を、ニュータウン住民と思しき人々が、ぞろぞろと歩いていくのだ。そして、神社には初詣客が長い行列をなしていた。この「天神さま」こそが、千里地区一帯に重みをもって影響を与えてきた、いわゆる「パワースポット」なのだ、と思った。

不信心者の小生がなんでまた、という理由は、今年の卒論で「千里ニュータウンと上新田との比較」をテーマとする永田君との出会いにある。井上ゼミの彼が千里を研究したいと相談にきた。話をしているうちに、彼が上新田のありように異常に興味を抱いていると知って、あっと思った。小生自身は「千里ニュータウンの周辺部」の問題の重要性にうすうす気がついていて、そのうちでとくに洪水対策の河川改修が下流地域に巨大な損害を与えてきたことなどを実証したりしては来たが、住環境と暮らしの問題として、きちんと比較したり検証をしたりという研究はしてこなかった。

そうか上新田という重要な集落の存在を、ないがしろにしてきた!しまった、永田くんに先を越された!かねて「学生はライバル」というのが自分の教育者としての信条だとうそぶいていたが、ここにきて、そのライバルが登場したことを知ったのだ。

じつは、かねてわたし自身が、直感的にではあるが、上新田の存在こそが千里ニュータウンの「救い」ではなかったかとは、思っていた。短期間にすべてを「計画し尽くす」というわが国のニュータウン開発事業には、どうしても人間の暮らしのスケールと相容れないものがある。見知らぬ者同士が突然近隣に住まい始めることで当然生じるぎくしゃくとした人間関係の問題。さらに具体的には、たとえば開発途上ではマンモス小学校ができたり、無医村が生まれたり、今日では一斉高齢社会化という問題が露呈してきたりしている。

ニュータウン開発には、当然ながらいろいろな無理があるのだ。上新田の存在は、未熟な居住地である千里ニュータウンに次々と発生した諸問題を、ある種のバッファーとしてやわらかく緩和してくれた可能性があるばかりでなく、何かもっと説明できないほど重要な役割を果たしたのではなかったか。ばくぜんとではあるが、そんなことを考えてはいた。

なかでも「信仰」の問題は、わが国のニュータウン開発ではアンタッチャブルとしてきたわけであるが、千里ニュータウンの場合は、上新田の氏神様がこのことについて、かなり重要な役割をはたしてきた可能性がある。これ、なかなか興味深いテーマとは思っていた。
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1950年代の終わりごろにスタートした千里ニュータウンの計画では、先進モデルとして知恵を吸収した当時のイギリスのニュータウン計画において、「近隣住区」が計画単位とされていて、千里もこの手法を真似して計画が進められた。事業をやる立場からのご都合主義で、これをわが国の「小学校区」と読み替えて、今ある佐竹台とか津雲台とか新千里北町とかの町の単位で、年に2-3住区ずつ建設がすすめられた。

それまで全くの他人同士であった人々が、ある日突然集まって住みはじめるというニュータウンにおいては、住民同士のコミュニケーションをうまくはかる必要がある。それをどう進めていけばいいのか。小学校は確かに一つの求心力を有しているが、一般住民をすべて巻き込んでいるわけではない。イギリスの場合は、住民のコミュニティ形成の中心として、それぞれの住区に教会とパブがつくられ、日曜日には着飾って礼拝にでかけ、夕方にはパブに集うので、近隣住民どうしの心のつながりが自然と生まれる仕組みであると聞いた。

なるほど、うまくできているなあ、だがわが国にそれを移し替えるとどうなるか。まず数ある宗教のどれにするか、で大もめするだろう。かりに宗教施設用地を設けて、それを分譲をするとして公募したら、おそらくお金に余裕がある新興宗教が入ってきて、それ以外は排除されてしまうだろう。もっともそれ以前に、公的な住宅地開発で宗教空間を用意すること自体が問題とされるだろう。

というわけで、宗教施設の代わりに、何か方法はなかろうかと知恵を絞ってつくられた方針がこうである。各住区に「近隣センター」をつくり、そこに生鮮と日用品を扱う小型のショッピングセンターと、郵便局、行政の支所、銀行と交番、それにもう一つ、当時おフロがついていない公営住宅の居住者が日常的に確実に利用する「公衆浴場」を設ける。

つまりお風呂屋こそ、わが国の誇る独特の「社交場」であり、そこで裸のつきあいをしていただくなかで、自然に住民同士の心のつながりも生まれてくることを期待しよう・・・教会のかわりに風呂屋さん、という発想である。今ならびっくりするような発想であるが、こんな話が、内部ではよくされていたのを記憶している。ただ、文書には一切残されていないだろうから、おそらく外部にこの情報は出ていない、と思う。

まあ言ってみれば、技術屋バカが苦し紛れに思いついた仕掛けである。しかし、これは小型ショッピングセンターが中央地区にできた大型店に完全に食われて衰退し、そのころ同時に公営住宅にも各戸に風呂が付き始めて、風呂屋さんがつぶれて、わずか数年で目論見はすべて外れてしまった。だからいま、公的な施設として、ニュータウン住民どうしの住区内コミュニケーションの場、とくに心のつながりに資するような場は、皆無と言っていい。

イギリスのニュータウン計画における、コミュニティ形成を精神的な面で支える仕組みについて、我が国では形態だけマネしようとして、見事に崩壊したわけである。この点から見ても、イギリスの風土の中から生まれたニュータウン・アイディアを、わが国の風土に持ち込むことに、もともと無理があったという気がしてくる。

これにひきかえ、もともとが自然集落として形成されたと思われる上新田地区には、風土の中にしっかりと氏神様が存在していた。そして、いまやそれがパワースポットとして、根無し草集団のニュータウン住民を惹きつけている。この事実をどうみるか。

ニュータウンの事業がはじまる以前の議論としては、計画から除外されて「お気の毒な」上新田地区は、やがてニュータウンに圧倒されて、みじめな居住地になる可能性が高い。だから一刻も早く区画整理事業を適用して、ニュータウンの一角としても引けを取らないような町にちゃんと整備し、ニュータウンのなかに「吸収」してあげるべきだ、といった「上から」の目線での議論もしきりにされていた。

つまり、上新田のような「時代遅れ」の伝統的集落の形態は一刻も早く消し去るべきであり、設備の揃った近代的で清潔なニュータウンに「吸収」し、ニュータウンと一体化してはじめて地区の人々は幸せをつかむことができる、という見方であった。伝統的な集落のもつアイデンティティの重さ、とくにその精神的な支柱ともいうべき氏神様の存在の意味などを、事業者側で意識していた人はおそらく誰一人としていなかったように思う。

今日、上新田地区には「無計画的に」侵入してきたマンションが林立し、ニュータウンから「はみ出してきた」諸種の施設が、これまたきわめて無計画的に立地して、一見かなり乱雑な町という印象がある。しかし、元々の居住者の住まいがある地区の中心部は、どれも大型の敷地に堂々とした構えのお住まいが並んでいて、なかなか風格がある。昔に比べてどの住宅も立派になっているのには、おそらく開発事業で土地を売却したことなども関係があろう。近隣施設もこのあたりに集中していて、集落の「かなめ」としてしっかり機能していると見た。掲示板なども、きちんと整備されており、生きている。おそらく新入りの住民たちの多くは、在来の地区の仕組みやしきたりに圧倒され、パワーのある自治会の管轄下に包含されている例も多いのではなかろうか。

いずれにしろニュータウン開発の海の中に、まるで離れ小島のように「取り残されてきた」上新田地区のアイデンティティは、ニュータウン開発によって圧倒されたのではなく、取り巻かれたなかでも、何ひとつ損なわれなかったのだ。

そればかりか、上新田の氏神様は、むしろニュータウンから人々を精神的にも物理的にも惹きつけて居るのだ。確かに「立派な」道路こそないが、そこには生きたコミュニティが存在し、氏神様がちゃんとそれを守ってくださっているという安心感がある。少なくとも精神面において、上新田はニュータウンをはるかに勝る独自性とパワーを持続して、ついには逆にニュータウンの一部を呑みこんだ、と言えるのではないか。

by honmachilabo | 2011-01-02 23:24  

新年好!

あけまして、おめでとうございます。
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by honmachilabo | 2011-01-01 11:39  

久しぶりの長崎その3 ハウステンボス

誰も遊んでくれない久しぶりの長崎訪問。そうだ、ハウステンボスはどうなったか見ておこう、と帰途を変更して佐世保に向かった。HISがはいり、県と市の巨額の助成を引き出して、なんとか経営にめどが立ったというのだが、実態はどうか。じつは、小生はハウステンボスが結構好きで、長崎在住の時代には,よく行った。それが年月を経て、なかなか素敵な街に成熟してきている。紅葉がきれいで、レンガの舗装道がシックな感じに古色を帯びてきていた。

開会式に招かれたオランダ国の王女さんが、これで犬の糞が落ち居たらオランダのまちだわ、と見事なジョークを飛ばされたが、まさに、異国情緒たっぷりのいい街だ。
ここに国連の施設、ユネスコ的なものを誘致して、それをテコに町を開放してしまい、フツーの街にするのが最も経営的には楽なのではないか、と以前から考えていて、そのことを発足当初に新聞に投稿して提案した。テーマパークとしては、どう考えても採算性に無理がある。何かの「首都」のような感じの地位を持たせ、自立する方法を考え、大村湾岸のいかにも日本的な小さなまちや農村部をうまくネットワークすれば、これは全体として世界に売り出せる。じっさい、大村湾岸の川棚という地には、旧日本軍が航空機の本格的な生産基地を作ろうと、大量の工員住宅まで作った歴史がある。それだけの優れた気候風土条件を備えたの地域である。海あり、ヒンターランドに豊かな農業生産の場あり、そして近隣には長崎と佐世保の中規模都市がある。なんとも幸せいっぱいの優れた立地条件なのだ。

ハウステンボスのヨットハーバーには、なんと大量の大型ヨットが繋留されていた。日本人は貧乏人ばかりではないのだなあ!とつくづく思った。大村湾に基地をもって、五島列島からアジア諸国へのセーリングができる、ここは、外洋を愛するヨットマンにとって、まさに好位置でもあるのだ。
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by honmachilabo | 2011-01-01 02:05  

久しぶりの長崎その2「観光」

長崎在住26年間でのメインの研究テーマの一つが「観光」であった。当時九州で観光関係の学会に属していた大学の研究者は、大分大学の経済学部の田原榮一先生と小生の二人だけ、という時代であった。観光など学問の対象ではない、とされていた時代である。この先生と観光関連の旅館の親父たちと飲んだことがあるが、めちゃくちゃに酒が強い。観光をフィールドで研究するには、これだけ酒に強くないと難しいかなと、へこんだ記憶がある。

私の主たるフィールドは長崎市内と県下の離島、そして雲仙温泉とまだお客がちらほらという時代の大分県の由布院温泉。由布院では地域おこしの立役者の健太郎さん、薫平さん、康二さんらによく遊んでいただいた。雲仙のホテルの2代目の青年連中とはよくつるんで、いろいろなイベントをやったりした。今その連中がみなホテルの社長になっているが、当時から経営は相当苦しんでおられた。マス観光時代に膨張したツケを背負っていて、明らかに時代遅れの経営を展開せざるを得ない二代目の辛さをよく聞かされた。それを乗り越えるだけの度胸と才覚と蓄えのなかった有力ホテルは、その後軒並み倒産した。国立公園だから自然環境はリッチだし、お湯もよく、伝統的に接客へのおかみの気配りは大変なもので、町並みを構成するホテルなどの建築群も美しく、とても健康的ないい温泉地なのだが、少人数客への気配りが弱く、楽しさの演出も少ない。結果としてリピーターが少ないのが決定的な弱点とみていた。その後状況が大きく変わったとは聞いていない。

長崎で「観光」を研究しようとして、いちばん悩んだのは、「原爆観光」をどう考えるべきかという大問題であった。観光を経済的な視点でみると、「原爆観光」も長崎が誇る「異国情緒観光」も、宿泊収入や土産物、飲食、交通などの観光収入は一緒くたであったし、その経済効果は相当大きいものであった。

しかし、普通の感覚で考えると、被爆地という現実を観光の売り物にするという神経がたまらない。もう一つの目玉が、異国情緒と美しい港町としての長崎の風光であるから、この両者はかなり異質であり、それを観光でひとくくりにするには相当な違和感がある。原爆を観光の売り物にするなんて、まるで被爆者を冒涜する「見世物観光」ではないか?しかし、現実には8月の「観光客」の大半は原爆反対の集会の客である。そして、その人たちが落とすお金は決して小さいものではない。長崎経済を支える重要な柱であることは間違いない。

もう一つ、「異国情緒観光」にしても、長崎を舞台に活躍したのは、海援隊の坂本竜馬やグラバーなど、すべて外来の人士であり、その人たちの活躍ぶりばかりが強調されている。では、「長崎は彼らにからだを貸しただけなのか!」。これは当時のかなり先鋭的な学生が発した鋭い疑問の言葉であった。この指摘にはこたえた。私は深く悩んだ。もしそうであれば、そんな外来人士の活躍の跡を売り物にするというのも、市民的視点で考えると、いささか屈辱的な感じがないではない。

このあたりを、論理的なにきちんと詰めておかないで、ただべたべたと「観光振興、観光産業育成」などとやっていても、やがては破たんするのではないか。そんな危惧の念を抱いていた。

一方で私は当時の学生たちと市民と一緒になって「中島川を守る会」をつくって、川掃除やまつりなど様々な活動を展開していた。長崎の都心部を流れる中島川は、そのほとりを毎日のように龍馬やシーボルトが行き来し、舟運を使って港に停泊した外国船からの荷物が町内に運び込まれて、活発に商いが行われた、まさしく「長崎の母なる川」であったが、当時は悪臭を放つどぶ川となっていて、その周辺で無謀な道路工事が計画されていた。一方で市民運動の側は、ここに「中島川大遊歩道建設」という大スケールのすばらしい対案を提示して、市の行政に切り込んでいた。私は、ここに架かる眼鏡橋をはじめとする江戸期に建造されたアーチ石橋群の調査と、町ぐるみでその保全活用をどうするかという問題にも取り組んだ。

その中で、私は、長崎市民に脈々と受け継がれてきた「町人力」というものがある、という大発見をした。1600年代に建造された眼鏡橋をはじめとするアーチ石橋群(当時14橋現存した)は、中国とヨーロッパからの外来の技術を、長崎人が学んで、自らのものにして自力でどんどん建造したものであり、その財源は町人たちの寄進によるものであった。石工たちはやがて九州の各地へ技術移転するに至った。そういう町人力のシンボルこそが眼鏡橋であった。

私はようやく、この視点に立つことで、観光長崎の資源の見方を論理的に統一的にとらえることができるのではないか、と考えるに至った。詳しくは拙著『ながさき巡歴』(NHKブックス)や『まちづくり道場へようこそ』(学芸出版)などに一応書いているが、要は、江戸期以来脈々と市民のなかに蓄積されてきた町人力が、外来人士の活躍を、おおらかに受け止め、かつ積極的に支えてきたのであり、その延長上に、原爆の惨禍から立ち上がって都市復興を進めて現在にいたる市民の努力があった。したがって、そういう歴史の軌跡のすべてが長崎の観光資源なのだという認識であった。

「観光とは平和へのパスポート」tourisum is a passport for peaceというのは、そういう名前の本があるので、私のオリジナルではないが、まさしくその視点で観光長崎をみなければならない、というのが私の結論であった。

具体的に言うと、民族と民族、国と国の交流のもっとも悲惨なかたちが「戦争」であり、その対局であるもっとも幸せなかたちが「観光」とみるべきではないか。現在の「観光」には、なんとなく嫌味なイメージがあるが、それは本来の「光を観(み)せる、観せていただく」という意味での観光とは無縁な、誤った方向なのである。観光を本来の姿に戻すとともに、世界平和のためにこそ「観光」は大いに展開されるべきなのである。観光産業に従事するということは、まさしく平和産業に従事することであり、観光とは人類にとってもっとも大切、かつ崇高な仕事なのである、というのが、苦しんだ中で私なりに到達した観光論であった。

以前にも乗ったことがあり、まさしく長崎観光の「違和感」をたっぷりと味わったことのある長崎市内の観光バスに、久しぶりに乗ってみた。少しは変わったかなと期待したが、昔味わったあの違和感は全く変わらず存在していた。

まず訪れた「原爆資料館」では、被爆者の山口仙二さんが「原爆観光」にわが身をさらしておられた。この方には一度お会いしたことがあるが、とても快活で、魅力的かつ思慮深いすばらしい人物であった。長崎の町人力をまさしく体現しておられるわけだが、そのご努力と精神力に頭が下がった。
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この中央橋のバス停の上屋のデザインは、実は小生の設計・・・
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バスに乗り合わせただけのお客全員の写真も研究材料として購入してみた。長崎港がやけに狭くなってしまっている。排水力が極端に減っている。また大洪水が来たら、浸水被害は1982年の大洪水を上回るであろう。
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by honmachilabo | 2011-01-01 01:24  

久しぶりの長崎

2010年11月25日には長崎総合科学大学建築学科45周年記念シンポジウムに参加してきた。わたしは1970年に赴任して96年まで26年勤めたが、卒業第3期生が最初のゼミ生であり、連中の多くはすでに定年を迎えているばかりか、第一期ゼミ生6人のうち2人もあの世に行っていることを、今回初めて知った。

シンポでも、さすがに45年という歴史は重いものだと感じた。4人の講師がそれぞれ自分のやってきたことやトピックスを語ってくれたが、その語りがいかにもよかったのだ。

長崎市の部長を務める行政マンと設計事務所を経営する3人であるが、建築という仕事が、基本的に他人のお金で好きなことをさせていただく、という性格でもあるせいか、クライアントを口説くテクニックとして自然に身に着けたのか、それぞれの語り口が実にいいのだ。けっして能弁というのではなく、相手を納得させるだけの中身があるし、人間的な魅力が感じられる。

会場は長崎港に新設された国際ターミナルビルで、設計者の佐々木信明さん(インターメディア)に案内してもらった。彼の代表作の一つとなった諫早斎場の設計を一緒にやった仲である。内部には細い独立柱がアトランダムにある不思議な構造で、屋上は芝生の丘になっていて、だれでも外部からも登れるエコ建築である。設計コンペで勝ち取った仕事とのことであり、とても優れた作品であるが、地方建築家は、全国誌にはなかなか取り上げてもらえないらしい。
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by honmachilabo | 2011-01-01 00:38