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上海よ、どこへ行く

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大阪の水都の会(酔徒の会、粋人の会、またはスイーツの会)のみなさんにくっついて、2泊3日の駆け足で上海に行ってきました。万博見学が入ったツアーですが、人、人、人・・・を見に行くだけだろうということは初めから覚悟していました。おまけに雨。会場に直行する真新しい地下鉄のエントランスから、なんと厳しいセキュリティチェックで、ここで早くも長時間の足止めを食らいました。

これまで万博といえば、大阪、つくば、沖縄、愛知、大阪花博、浜松花博・・・と商売柄できるだけ足を運んできましたが、まともなパビリオンに入った記憶はありません。並んでいる人の波をみただけで、あ、もう無理とあきらめて、ただ、その雰囲気を確認してきただけです。今回も当然そうなりました。しかし上海の変わりようをみるには、やはりこういう機会をつかまえないとと思って、無理やり参加した次第。

上海万博会場の最大の特徴は、淀川クラスの大河を挟んで両岸に会場が配置されていることです。フェリーで往復してみましたが、これはなかなか快適で、しかも会場のスケール感をしっかりと味わせてくれました。行列の少ないパビリオンを少し覗きましたが、手抜きの「映像」ばかりで、これにはうんざり。

全体として、大阪で1970年に行われた万国博覧会に、いろんな意味でよく似ているな、というのが、小生の率直な印象です。にょきにょきと建っているパビリオンのデザインが、いずれも「一流建築家」たちが奇をてらって競い合っている感じで、40年前の大阪のとよく似ているように思えてなりませんでした。そして時期的にも、オリンピックを成功させ、そして万博という、わが国がたどった高度成長のプロセスが、まさにモデルとしてスケジュールどうり忠実に再生されていたことがあります。戦略としても、チベット問題をふくめ、かなり大変な国内外状況にあるけれど、そこに大イベントを起こすことで、紛らせようとした側面があります。日本でも「安保改定」を巡る大騒乱があり、それを宥めつつ国民の関心を別のところに振り向けようという大仕掛けの側面があったことは否定できないと思います。
とはいえ、国民大衆が日本万博を通じて身近に世界を感じ、「こんな国と戦争していたのか!アホやった!」という感想を持ったことは確かで、平和と国際交流の大切さをあらためて知ったことの意義は大きかったと思います。

一つ大きな違いとして、上海万博に「太陽の塔」に匹敵するものがなかったことがあります。お祭り広場の巨大な大屋根や、世界の「一流建築家」たちの渾身の(?)作品であるパビリオンの数々を、あの巨大な「太陽の塔」一発ですべて押さえ込んで、見事に統一感を生み出した岡本太郎の鬼才!あのとき、現代芸術というもののすごさを身にしみて知りました。
もっとも、なぜ岡本さんがシンボルの作家として任命されたのか。あまりにも的確だったあの人選と決定のプロセスを、誰が実際に取り仕切ったのでしょうか。ふと歴史を紐解きたく思いました。

ちなみに小生は、その岡本太郎さんと梅棹忠夫さん、泉靖一さん、小松左京さんの下で、世界民族資料学術調査団の一員として東アフリカ各地の仮面と神像と現代の民具の収集に当たり、そのときの収集品は「太陽の塔」の地階で展示されたのち、いま「国立民族学博物館」のアフリカ展示の中核となって配置されております。なかでもよく目立つ巨大なぬいぐるみの一式は、ザンビアのある部族のイニシエーションダンス(割礼の儀式)の衣装です。これは、リビングストン野外博物館で踊っていた人たちのものを交渉して全て譲ってもらい、確実に日本に送るために自分で箱詰めして航空便で日本に送った思い出があります。

あと、市内にある巨大な都市計画博物館というのにも行きまして、壮大な都市計画模型を拝見。なんと上海市内中心部(DID)の計画としては、農地も伝統的な低層集合住宅(リーロン)もすべて完全になくして、広大な空間をすべて中高層のマンションで埋め尽くすということになっているのに唖然としました。実際、バスで走ってみても、市内にはまったく農地らしきものがないのです。この大量の人口を支える食料はすべてかなり離れた地域からの移入になるのですから、フードマイレージは想像を絶するほど大きくなります。1980年と87年に訪れたときには、都心に近いところにも、まだ農地がたくさんあったと記憶しています。なんとかクサビ状にでも農地を残せなかったのか、と思いました。

上海には、その後1993年ごろと2007年にも短時間訪れておりますが、その頃から都心集中の勢いに圧倒されっぱなしという印象です。都市計画として、明確に生産緑地を残す工夫をしなければ、これは決して残りません。土地私有制ではないので、その気さえあれば、できそうな社会的背景があるように思うのですが、そういう方向性は、まったく感じられませんでした。まさに日本の大都市がたどったと同じような「巨大都市の無計画的な膨張」の道を、上海もまた進んでいるように思いました。

1987年の訪問時には、同済大学で「日本都市計画の現代的潮流」と題した「寸講」をやって、一宿一飯の恩義を受けました。そのとき「自転車都市である上海こそが、世界の最先端である」と、「一周遅れのトップランナー」をたたえる講義をしましたが、あまり理解されなかったように思いました。そして、その自転車王国は、いまやクルマに圧倒されて息絶え絶えになっていました。都心部では、なんと自転車の進入禁止が行われていたのです。
また、同済大学では伝統的なタウンハウスである「リーロン」について、愛情を持ってまさに地を這うような地道な研究をされていた、まさに西山研究室的な一人の研究者に出会い、リーロンの内部をくまなく案内していただき、その住まい空間としてのすばらしさに目覚めたわけですが、これらも親の仇のように、次々と破壊されていく様子でした。
ただ、古い住宅地の建て替え現場で、建物に×の印(取り壊し命令)を付けられながら、「わしはまだ住んでまっせ、ハ、ハ、ハ!」という落書きを発見して、ここにも時流に流されまいとする骨のある人物も居るのだと、少し救われたような気分になりました。

もう一つの救いは、古い倉庫群や住宅地の雰囲気を残しながら、アーティストの溜まり場のような「芸術中心」を市内各所に造っていることで、これが新しい活気を都市に与えていることです。アートがまちを元気にする、というコンセプトはなかなかに魅力的でした。水都の会の代表である藤井さんが無理に企画にはめ込んで連れて行って下さったのですが、これは大収穫でした。

ニューヨークのソホーに似ているし、大阪で言うと、空堀とか中崎町だとかで小規模に進んでいる状況にも少し似ていますが、しっかりと行政が支えている感じで、しかもアーティストたちはかなりのびのびとそこで暮らしたり制作したり売ったりしているのです。むしろその昔、イタリアのフィレンツェで、古いぼろぼろの修道院の内部をコマ割りしてアーティストたちの溜まり場にしているのをみて、これいけるぜ、と興奮した経験を思い出しました。新築のこぎれいなところよりも、こういうカオスに満ちた、工場跡地とか古い町並みがアーティストの感性に刺激を与えて、創造の意欲を駆り立てるような気がします。

「これ、大阪でやるなら中津やな!」わたしのつぶやきを聞き逃さなかったのが、藤井さん。すかさず「そやねん!中津なんや!」。藤井さんの顔に満面の笑みがはじけました。われわれをこの場にいざなえば、自分の共感者は必ず増える、と藤井さんは密かに確信していたのでした。

by honmachilabo | 2010-05-29 11:16  

逞しくなった中井氏登場:みつや交流亭総会

5月16日、今年度の第一回NPOみつや交流亭総会に、理事の中井氏が久々に登場して大いに沸いた。わずか1ヶ月半前までは、四六時中でれーとした感じだった彼が一変していた。よほど修業が厳しいのであろうか、トレードマークのワラジ履きに、緊張感のある引き締まった顔つき。うーむ人間しごけばこうも立派に逞しく育つものか。さすが斎藤俊幸氏率いる高知県本山町の「地域おこし協力隊」の教育力は高い、などと一同深く感銘を受けた。もっとも、よく聞いてみると、ここのところ「たんぼでアート」(田植えのシーンの写真は斎藤氏のブログより勝手に拝借)のために、3日間連続して田んぼに入っていたために、単に日焼けしただけだったらしいのだが。
それでも近況報告によると、10名居る隊員は、一人一人が相当なスキルの持ち主で、それぞれが地域のまちおこしにむけて自分のテーマ設定にかかっており、中井氏も負けじと、いま林業にはなにかがあると模索し始めているとのこと。みつやでみんなで手塩にかけて育てた若ものが、他の地で大きく羽ばたいて一段と頼もしくなっていく様子をさかなに、みつやの夜は一段と盛り上がったことであった。その前前々日のペルーのフォルクローレ、フローレス兄弟のすばらしいデュオと、前日のペルー料理の講習会(NPOもみじ主催)の模様も紹介しておく。
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by honmachilabo | 2010-05-20 23:31  

日本の石橋を守る会総会in通潤橋

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日本の石橋を守る会の総会が2010年4月24,25日に熊本県の通潤橋のところであり、久しぶりに出席した。第3代目の会長である本田義雄さん(熊本稲荷神社宮司)が引退され、新会長には山都町の甲斐利幸町長が就任された。じつは片寄はこの会の初代の副会長であり、その後第2代会長兼事務局長を、創始者である石橋研究家の山口祐造さんと初代会長で通潤橋のほとりにお住まいであった郷土史家の井上清一さんから命ぜられて、山口さんが亡くなられたあと約1年半ほど引き受け、残務整理をやったという経緯がある。名残は会場に飾ってある「日本の石橋を守る会」の旗。このデザインは誰あろう小生の作である。今回の収穫は、山都町の図書館長であり無農薬の茶生産者である下田美鈴さんとの出会いであった。彼女には「逆サイフォン」の技術をつかって通潤橋が対岸に送った豊かな水が、どのように田んぼを潤しているかを見なさいといわれ、さらにそこにある集落にすばらしい石造りの蔵がかなりたくさん現存しているのを見せていただいた。そして彼女の「わが図書館に石橋関係資料を日本一の規模で集めたい」とのお考えを聞き、その情熱に待ってましたと飛びついた。じつは、小生の石橋関係の資料や蔵書は相当なものなのだ。もう本格的な石橋研究はやらないだろうし、これ、あとどうしようかと悩んでいたのだった。ぜひ参加させてください、手持ちの資料は全部お送りします、と申し上げた。フランスやドイツ、ポルトガル、イギリスそして中国の歴史的な石橋についての分厚い本もある。山口さんの著書もほとんど全部ある。山口さんの最初の著書である「九州の石橋をたずねて」全3巻の表紙のデザインもじつは小生であるし、中身についても、山口さんが自由に使っていた版権のないいろいろな写真を、スケッチに描きなおして、何とか使えるようにするといった作業も、当時の同僚であった浜砂さんといっしょに徹夜でやった思い出がある。

by honmachilabo | 2010-05-01 13:17  

天草移住で長年の喘息が治ったという話

日本の石橋を守る会のあと、本渡の「祗園橋」を訪ね、先日諫早湾の開門をせまる集会で知り合いになった天草在住の鳥山さん宅を訪問してきた。三角から本渡まではすばらしい1時間の船旅を楽しんだ。大阪から移住してすでに6年とのこと。いわゆる「I(あい)ターン」族であるが、彼を追いかけるように原発立地の問題が天草にやってきたそうで、いまは否応無くその問題に真剣に取り組んでおられる。かたわらミカン山をかりているとのことで、そのアマナツのおいしいこと!ところで、よく奥さんがついて来てくださいましたね!と不躾な質問をしたところ、こんな田舎だとは知らずについきたところ、何十年も悩んできた喘息の発作が、天草の地を踏んで3日目に完全に止まったのですよ、とのこと。転地療法はしばしば効果があると聞いてはいたが、まさに劇的に効いたらしい。ちょうど小生も今年は昨年末から3ヶ月あまりもずっと咳になやまされてきたのが、ホームドクターが最後に処方してくださった抗生物質が効いて、まるで霧が晴れたような気分になったので、少しは理解できた。彼女は大阪に里帰りすると、また発作がぶり返したとのことで、この地の住みよさを実感されていた。九州は豊かな住みよい地であることは小生も長崎で26年間過ごしたので、よくわかる。天草は過疎化の進行で、外来者を大いに歓迎されているようだが、この地に移住すれば「喘息が治る!」ということは大きい「売り」になりそうだ。もちろん症状によって合性がいいかどうかがあると思うが、喘息に悩んでいる人はけっこうおおいし、ほんとうに辛い病気なので、うまく合えばいいなと恐らく全国からこの地に続々と人々が向かうのではなかろうか。鳥山さんのところは今のところネット環境が不十分らしいが、その効果と住み良さと農水産物などの情報がゆたかに発信がされると、これからは人口増、地域再生にむかいそうな予感がした。
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by honmachilabo | 2010-05-01 11:58  

諫早湾の開門調査の意味

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長崎新聞をずっと購入してきたのは、この記事を見るためだった。ようやく一歩前進というべきか。とはいえ予断は許されない。事業主体の側は、県の費用で購入し、多額の補助金をつけてリースに出して、表向き「公募」して、そこに賃貸契約で「入村」させた農業事業者をたきつけ、開門調査を要求する漁民とのいがみ合いを演出している。契約者の一つがTGF(トッテモ、ガメツイ、ファミリーとわたしが命名したが、前知事の娘婿で現自民党国会議員の長男が経営する会社)である。いかにも「農民対漁民の対立」という見かけであるが、その仕掛はみえみえだ。いわば植民地での民族対立をあおる「分割統治政策」そのままである。かつてわたしはアフリカの植民地で統治者であるイギリス人が、そこに導入したインド人と、先住民のアフリカ人とを対立させて統治している姿を独立前のタンガニイカ(現タンザニア国)で見たことがある。これに成功すると統治者は「涼しい顔」で、統治の継続ができるという仕掛けである。「地元は納得していない」というが、もともと長崎の民主党のボスである西岡氏の父親が元の県知事時代に「有明大干拓構想」を打ち出したわけで、有明海のほとんどを干陸地にしようと企画した人物である。そこへもってきて、長崎の民主党を支えるのが三菱造船の労組であり、もともと会社と一体の御用組合として有名で、その三菱重工こそがあの「ギロチン」をつくった会社なのである。だから「地元は反対」というジェスチャーは当然と言えば当然。しかし、有明海と諫早湾の状態はもう一刻の余裕も無い。早く海水を入れて、その自浄能力を高めないと、「淡水湖」には今年もきわめて毒性の強いアオコが発生するだろうとされている。海水を入れると「淡水湖」が農業用水として利用できないというが、毎年アオコが発生するほどの悪水を農業利用には出来ないし、現実にやっていない。高潮対策が問題というが、水門調節で技術的に十分可能である。海水をいれると、湾内は汽水となって、驚くほどの生物量が復活し、活発に活動し始める。汽水にすることこそが、この閉鎖水系の水質を画期的に浄化してくれる。当初はその水質に適合するプランクトンが棲みつき、やがて塩分濃度が上昇するにつれて、異なるプランクトンや魚類がすみついて、やがて限りなくもとの状況に近づいて、ついには干潟復活への筋道が見えてくる。その変化の状況は、まさにドラマティックであると思う。もちろんムツゴロウが戻ってくるには、水門の数を増やして本格的な干潟復活を急がねばならないと思う。
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by honmachilabo | 2010-05-01 00:57