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新著を出版していただきました

イマジン出版
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いいまちづくりが防災の基本
―災害列島日本でめざすは “花鳥風月のまちづくり”―
著者:片寄 俊秀(大阪人間科学大学教授)
まちづくりや被災地に係った著者が提唱する「しのぎの防災システム」こそ、今の課題。
災害とはなにか、災害に弱い町はどのようにつくられたのか、わかりやすく解説。
自然に謙虚に向き合う「花鳥風月」と「まち育て」の極意を説く。
まちづくりと防災の関係者必読の書

A5判型/88ページ/定価 1050円(税込み)
ISBN978-4-87299-443-8
発売日:2007/4/3

by honmachilabo | 2007-03-31 10:50  

花道場の四季

花道場の四季 銀閣 慈照寺発行「同仁」第8号 2007.1 
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                     片寄 俊秀

月に一度の花修業の機会をいただき、はや三年目に入った。シーズンにはごったがえす参拝者のルートから、ふいと横にそれて入る書院の大広間が、道場である。世間の喧噪からは見事に遮断された、まさに静謐な空間がそこにある。
はじめの挨拶のあとは、まず花活けに花茎を固定するための「こみわら」と呼ばれる藁束をつくる。じつは毎回そのつくり方を忘れてメモを見ながらという落ちこぼれ稽古生である。ときどき省略してつくると、師に一目で見抜かれ、「見えないところにこそ、手を抜いてはいけません」とぴしり。普段はとてもやさしく接してくださるが、こういうときの師は、凛としていて誠にすがすがしい。
こうしてときどき発せられる師の名言を、勝手に「玉緒語録」と名付けてスケッチ帖の片隅にメモしてきた。間違いがあるやもしれず、お許しも得ずに紹介するわけだが、埋もれさせるにはあまりにも惜しく、文責はあくまでわたしにということでご容赦を。

「相手が強いときは、自分がやさしく。相手がやさしいときは、自分が強く」。「シンメトリーにすると、他が入り込む余地がない。そこに隙間をつくったげるといい」、「崩すことは誰にでもできるが、真がきっちりしていないと、品がない」。だが、「真が暴れると、バランスをとるのに苦労する。それを楽しむ」、「真が動いているのを、おもしろいと受け止める」、つまり「決まった通りをその通りやるのが簡単やけど」、じつは「嫌な(枝振り)のをどうなだめるか。そう、そこが面白い」のだという。
「花はどこを向いていてもきれい。花にまどわされるよ」、だから「人間の都合で動くのではなく、花に合わせて動く」。「こんなふうに木を草が挟むと感じ悪い。嬲(なぶる)という字があるでしょう」、「自然にしたがって草木の縁が続く」、「花はお陽さんの方を向いて咲く。人の方を向いて咲くわけではない」。これらが、ここのいけばなの自然観である。
きれいな小枝を鋏で切り取るのを惜しんでいると、「残った小枝などは別の花瓶に入れる。それが『生花』」。つまり「切って捨て去るのではなく、すべて活かして使う」のだから、思い切っていい。さらに、「花にはオモテとウラがある。そのことを知った上で、向きは自由」。つまり自由さと無知とは違うのだ。
師は、生けおわった瞬間にくるりと後ろをむいて、すっとその場を離れていく。われわれは、後ずさりして矯めつ眇めつ、何度も修正したりするのだが、師はさわやかに立ち上がると、あとは決して振り向かない。すっと入る時もあれば、なかなかそういかぬ時もあるらしい。「邪心があるときは、はいらへん」といわれる。わたしの生けたのをみて「こちら側しか向いていない。これでは人間さまだけが見るんやね」と笑われた。本来、立て花は仏さまに手向けるものなのだ。

 慈照寺での花修業のもう一つの幸せは、大広間の三方をとりまく二十面の壮大かつ自由闊達な富岡鉄斎の襖絵「大江捕魚図」と出会えることである。絵には「明治庚子一月」という落款があり、明治三十三(一九〇〇)年、鉄斎六十四歳の作品であると梅原猛さんの文章に紹介されている。鉄斎がさまざまな人生を歩むなかで、ついに画風を確立した頃の傑作の一つである。
この豪華な空間のなかでの花修業の静寂のひとときは、わたしにとってまさしく至福のとき。さらに季節毎に入れ替わる楽しみが、東山大龍師のおおらかで風格のある見事な書の踊る床の間の掛け軸である。
鉄斎の絵と響きあって、その余韻の快さは、おわりの挨拶のあともいつまでも残る。まさしく日本文化がつくりだした至高の空間での修業に、よちよちと励んでいる。

(かたよせ としひで 大阪人間科学大学教授 絵と文)

by honmachilabo | 2007-03-19 11:32