ああ、南野佳代子さん!
2009年 09月 17日
西山文庫の「すまい・まちづくり文庫レターNo.45、2009年秋号にたまたま南野さんのご尽力で「みつや交流亭」が生まれたいきさつなどを書いたところでした。文庫から届いたので、病床で見ていただこうと南野さん宛てに送ったのが、なんと15日の朝でした・・・・
佳代子さんの手のひらの上でみんなが踊っているうちに・・・
片寄俊秀(みつや交流亭世話人・大阪人間科学大学教授)
みんなが彼女の手のひらの上で、飲めや歌えやと踊っているうちに、だんだん「かたち」になっていき、「みつや交流亭」が生まれた。これだけの大仕掛けのできる大人物は、そう居るものではない。踊る場を失ったわれら凡人集団は、さてこれからどう振舞えばいいのだろうか。途方にくれるばかりである。
あの全国を飛び回る有能多忙な早稲田商店街の藤村望洋さんが、彼女の通夜に出席するためだけに飛んでこられた。数百人という通夜者の多彩な顔ぶれをみて、「この人のすごさを、周りの人は本当にわかっていたのだろうか」と彼がつぶやくのを聞いた。われわれも、本当に彼女のすごさがわかっていたのだろうか。
じつは葬儀の翌日、彼女が設立運営に尽力された一人である「ナナゲイ」(第七芸術劇場)で、「未来の食卓」というすてきな映画を鑑賞した。がんで次々と命を失う人が増えているなかで、食の改善が基本だと取り組んだフランスの小さな村のお話である。共感と深い感動を覚えるとともに、大阪ではここでしか上映していない現状に、あらためて彼女の偉大さを身近に感じた。みつや交流亭もナナゲイも、もちろん「ザ・淀川」の発行と配布も、彼女が仕掛けたり参加してきた多彩な活動の全ては、彼女の内部にたぎっていたマグマがいろいろなかたちで噴出したものであったと思う。
ところで、手のひらから放り出されてしまったわれわれは、さてどうすべきであろうか。いま出来そうなことといえば、彼女をさかなに、われらが唯一共通の目的「うま酒を呑む」ことぐらいか。とりあえずは「水都2009」にあやかり「酔都×粋人2009・佳代子をさかなに」を提案したい。場所は「みつや交流亭」を生み出した、十三駅前の「富五郎」がもっともふさわしい気がする。わやわやと騒がしいばかりの、締りのない集まりになることは目に見えているが、そこに多様多彩な新たな出会いが生まれれば、彼女の思いのある部分を受け継げそうな気がする。
わたし自身、決して長い付き合いがあったわけではない。知り合ってほんの数年だが、ずっと昔からの親しい友人のように接していただいた。じつはこの8月8日の「なにわ淀川花火大会」での二人きりのデート!が、いわば最後の出会いになった。そのときの生き生きとした彼女の笑顔は、とてもその一ヶ月後に旅立つ人とは思えなかった。ご病気のことはうすうす知っていたが、花火が始まるまでは会場のあちこちで出会った知人との立ち話、ドドーンと始まるやカメラをもって走り回る姿に、病の影はこれっぽちも感じなかった。病魔との苦しい闘いを他人にみせまいと、かなりの努力をしておられたのではなかったか。
「みつや交流亭」を舞台とする労働組合と商店街再生との結合という、まさに前代未聞、わが国最初の、ひょっとすると世界最初の試みは、彼女の幅広い人脈と両者への深い理解と壮大な構想力なしにはあり得なかった、と思う。当初からわたしは予言しているのだが、この試みはひとり「みつや交流亭」にとどまるものではない。おそらく全国、全世界に波及して、壮大な運動へと発展するに違いない。まちや地域がこれほど疲弊してしまっているいま、労使交渉だけで要求が勝ち取れる部分はあきらかに限られている。労働者の団結のパワーは、すべからくまちおこし、地域再生に向かってほしい。まちや地域に元気が出てくれば、労働者も商店街や地域もそして周りの市民も、みんながwin-win-winの関係、つまり「三方一両の得」のすばらしい世界が生まれる。運動発祥の地「みつや」は、やがて世界の人々が憧れる「聖地」となり、佳代子さんは「伝説の人」となろう。われわれ自身もまた、その伝説を日々刻みつつある一人であることを自覚して、つねに初心(うま酒)を忘れず、彼女の思いをさまざまに受け止めて前向きに生きていこうではないか。 合掌
by honmachilabo | 2009-09-17 01:01