久しぶりの長崎その2「観光」

長崎在住26年間でのメインの研究テーマの一つが「観光」であった。当時九州で観光関係の学会に属していた大学の研究者は、大分大学の経済学部の田原榮一先生と小生の二人だけ、という時代であった。観光など学問の対象ではない、とされていた時代である。この先生と観光関連の旅館の親父たちと飲んだことがあるが、めちゃくちゃに酒が強い。観光をフィールドで研究するには、これだけ酒に強くないと難しいかなと、へこんだ記憶がある。

私の主たるフィールドは長崎市内と県下の離島、そして雲仙温泉とまだお客がちらほらという時代の大分県の由布院温泉。由布院では地域おこしの立役者の健太郎さん、薫平さん、康二さんらによく遊んでいただいた。雲仙のホテルの2代目の青年連中とはよくつるんで、いろいろなイベントをやったりした。今その連中がみなホテルの社長になっているが、当時から経営は相当苦しんでおられた。マス観光時代に膨張したツケを背負っていて、明らかに時代遅れの経営を展開せざるを得ない二代目の辛さをよく聞かされた。それを乗り越えるだけの度胸と才覚と蓄えのなかった有力ホテルは、その後軒並み倒産した。国立公園だから自然環境はリッチだし、お湯もよく、伝統的に接客へのおかみの気配りは大変なもので、町並みを構成するホテルなどの建築群も美しく、とても健康的ないい温泉地なのだが、少人数客への気配りが弱く、楽しさの演出も少ない。結果としてリピーターが少ないのが決定的な弱点とみていた。その後状況が大きく変わったとは聞いていない。

長崎で「観光」を研究しようとして、いちばん悩んだのは、「原爆観光」をどう考えるべきかという大問題であった。観光を経済的な視点でみると、「原爆観光」も長崎が誇る「異国情緒観光」も、宿泊収入や土産物、飲食、交通などの観光収入は一緒くたであったし、その経済効果は相当大きいものであった。

しかし、普通の感覚で考えると、被爆地という現実を観光の売り物にするという神経がたまらない。もう一つの目玉が、異国情緒と美しい港町としての長崎の風光であるから、この両者はかなり異質であり、それを観光でひとくくりにするには相当な違和感がある。原爆を観光の売り物にするなんて、まるで被爆者を冒涜する「見世物観光」ではないか?しかし、現実には8月の「観光客」の大半は原爆反対の集会の客である。そして、その人たちが落とすお金は決して小さいものではない。長崎経済を支える重要な柱であることは間違いない。

もう一つ、「異国情緒観光」にしても、長崎を舞台に活躍したのは、海援隊の坂本竜馬やグラバーなど、すべて外来の人士であり、その人たちの活躍ぶりばかりが強調されている。では、「長崎は彼らにからだを貸しただけなのか!」。これは当時のかなり先鋭的な学生が発した鋭い疑問の言葉であった。この指摘にはこたえた。私は深く悩んだ。もしそうであれば、そんな外来人士の活躍の跡を売り物にするというのも、市民的視点で考えると、いささか屈辱的な感じがないではない。

このあたりを、論理的なにきちんと詰めておかないで、ただべたべたと「観光振興、観光産業育成」などとやっていても、やがては破たんするのではないか。そんな危惧の念を抱いていた。

一方で私は当時の学生たちと市民と一緒になって「中島川を守る会」をつくって、川掃除やまつりなど様々な活動を展開していた。長崎の都心部を流れる中島川は、そのほとりを毎日のように龍馬やシーボルトが行き来し、舟運を使って港に停泊した外国船からの荷物が町内に運び込まれて、活発に商いが行われた、まさしく「長崎の母なる川」であったが、当時は悪臭を放つどぶ川となっていて、その周辺で無謀な道路工事が計画されていた。一方で市民運動の側は、ここに「中島川大遊歩道建設」という大スケールのすばらしい対案を提示して、市の行政に切り込んでいた。私は、ここに架かる眼鏡橋をはじめとする江戸期に建造されたアーチ石橋群の調査と、町ぐるみでその保全活用をどうするかという問題にも取り組んだ。

その中で、私は、長崎市民に脈々と受け継がれてきた「町人力」というものがある、という大発見をした。1600年代に建造された眼鏡橋をはじめとするアーチ石橋群(当時14橋現存した)は、中国とヨーロッパからの外来の技術を、長崎人が学んで、自らのものにして自力でどんどん建造したものであり、その財源は町人たちの寄進によるものであった。石工たちはやがて九州の各地へ技術移転するに至った。そういう町人力のシンボルこそが眼鏡橋であった。

私はようやく、この視点に立つことで、観光長崎の資源の見方を論理的に統一的にとらえることができるのではないか、と考えるに至った。詳しくは拙著『ながさき巡歴』(NHKブックス)や『まちづくり道場へようこそ』(学芸出版)などに一応書いているが、要は、江戸期以来脈々と市民のなかに蓄積されてきた町人力が、外来人士の活躍を、おおらかに受け止め、かつ積極的に支えてきたのであり、その延長上に、原爆の惨禍から立ち上がって都市復興を進めて現在にいたる市民の努力があった。したがって、そういう歴史の軌跡のすべてが長崎の観光資源なのだという認識であった。

「観光とは平和へのパスポート」tourisum is a passport for peaceというのは、そういう名前の本があるので、私のオリジナルではないが、まさしくその視点で観光長崎をみなければならない、というのが私の結論であった。

具体的に言うと、民族と民族、国と国の交流のもっとも悲惨なかたちが「戦争」であり、その対局であるもっとも幸せなかたちが「観光」とみるべきではないか。現在の「観光」には、なんとなく嫌味なイメージがあるが、それは本来の「光を観(み)せる、観せていただく」という意味での観光とは無縁な、誤った方向なのである。観光を本来の姿に戻すとともに、世界平和のためにこそ「観光」は大いに展開されるべきなのである。観光産業に従事するということは、まさしく平和産業に従事することであり、観光とは人類にとってもっとも大切、かつ崇高な仕事なのである、というのが、苦しんだ中で私なりに到達した観光論であった。

以前にも乗ったことがあり、まさしく長崎観光の「違和感」をたっぷりと味わったことのある長崎市内の観光バスに、久しぶりに乗ってみた。少しは変わったかなと期待したが、昔味わったあの違和感は全く変わらず存在していた。

まず訪れた「原爆資料館」では、被爆者の山口仙二さんが「原爆観光」にわが身をさらしておられた。この方には一度お会いしたことがあるが、とても快活で、魅力的かつ思慮深いすばらしい人物であった。長崎の町人力をまさしく体現しておられるわけだが、そのご努力と精神力に頭が下がった。
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この中央橋のバス停の上屋のデザインは、実は小生の設計・・・
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バスに乗り合わせただけのお客全員の写真も研究材料として購入してみた。長崎港がやけに狭くなってしまっている。排水力が極端に減っている。また大洪水が来たら、浸水被害は1982年の大洪水を上回るであろう。
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by honmachilabo | 2011-01-01 01:24  

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